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鷽の宿木

戦国無双シリーズ 真田幸村総愛され欲を書き散らすブログ。幸村を全方位から愛でたい。

春告げ鳥に囲われる

『春告げ鳥に攫われる』の続きのようなそうでないような。
小ネタばかりじゃなく、いっちょまともな隆幸を書くぜ!と思い立って書いた筈だった。



桜を植えましょうかと言ったその人の声音は、花が咲く季節を思わせるあたたかなものだった。
規則正しく並んだ格子の向こうに見える庭には緑が生い茂っている。ぽちゃん、と水面を叩く幽かな音が届いた。木々が影を落とす小さな池に、蛙が飛び込んだのだろう。鳶の鳴き声が旋回している。外の世界は至極のどかだ。
自分が見ることのできる限られた景色、聞きとれる音に耳を傾け、此処がどう変わっていくのかを、幸村は想像した。
「隆景殿のお好きなように」
なるべくこちらの意思を反映させたくなくて、従順なような返事をすると、幸村の胸の内などはっきり見通している目が柔らかく伏せられる。見透かされるばかりで相手の考えが読めない。これが戦場の駆け引きであったなら、策に嵌って死んでいる状態だ。
けれど此処は、生まれ育った地から遠く離れた、何処の戦場でもない、閉じられた籠の中。
舞う土埃も血の匂いも怒号もない、穏やかさで蓋をした場所で、脅かされることのない首が哀しかった。差し上げるからどうか切り落としてくださいと乞うても、目の前の人は私が欲しいのは心だからと、この首を撫でるのだ。
無価値に堕とされた首、繋がり続ける首、長らえさせられる命。
悔しくて苦しくて噛み締めた唇も、隆景の指が触れると容易にほどけた。
「私は貴方が好むようにしたいのです。なるべく望みは言ってください」
「私の望みを貴方は御存知だ」
「ええ。でも、“それ”ではなく」
例えば、槍を返してほしいとか。
例えば、此処を出してほしいとか。
例えば、自害させてほしい、とか。
そういった幸村の願いは隆景によって選り分けられてしまう。
そんな行いを積み重ねていけばどうなるか。
うっすらと寒気がする予感を幸村が抱いたと同時に、隆景が説く。

「そんな顔をしなくても、私が叶えて差し上げたいと思うことを、貴方は自然と望むようになりますから。そのうちね」
幸村の心がいずれは隆景の心に添うのだという。恐ろしいことを宣告されて、震えそうになった我が身を腹に力をこめてなんとか制する。
あまりにも穏やかな時間に包まれた庵は血生臭さを徹底的に排除されて、書を読み移ろう季節を愛でることを幸いとする隆景にとっては、安らげる場所だろう。
或いは幸村とて、戦場へ駆り立てられる魂が毒を抜くように鎮まり、屈託なく隆景と共に微笑み合うようになるのかもしれない。
しかしそれはとてもとても、凍える程、怖かった。


目前のひとは手荒なことは何一つしてこない。言葉も眼差しも物静かで優しく、触れ方は殊に慎重で、なのに確実に幸村の精神は軋みを増していく。姫君を扱うようにこの身を遇して、丁寧に誂えた平穏を与えられる。
いつまでだろうか、と考えていられたのは、精々此処へ連れてこられてひと月の間だった。
曖昧なままではかえって心労でしょうと、隆景から一度はっきり告げられた。
『貴方の生きる場所は此処です。限りなどなく、この先ずっと。そして―――死に場所も』
飽きるだろうから少しずつ景色は変えていきましょう。貴方が病んでしまわぬように、囲いの内なら連れ出して差し上げます。それから外の話も偶にお聴かせします。
だから、決してこない“いつか”を頼みに耐えるのはもう、やめなさい。
大切なことなのだから、ゆっくりと語られたのだと思う。けれど幸村は確り聴いた心地がしなかった。
隆景が告げた言葉は矢となって一瞬のうちに胸の真ん中へ突き立ち、強い痛みでもって理解が及ばぬまま己が運命を悟らせた。
長い沈黙の後。
はらりと散ったのは庭に咲く花弁ではなく、幸村が零した涙であった。
気遣わしげに伸ばされた隆景の手が頬を撫で、眦から伝う雫を肌で拭う。
この方の指はひやりとしている。花の温度か、紙の温度だろうか。
ひとの肌の感触も体温も気付けば遠いものだったのに、これからは当たり前になるのだ。息をする度に、隆景という存在の、あらゆることに慣らされていく閉じた未来。
幸村は泣き続けた。日が暮れ夜が更けて、明るくなるまで、涙が流れるままに任せた。
その間、優しい手が引くことはなく、幸村は早速、その手に触れられることから慣れてしまっていた。

 


「桜を植えましょうか」
絶望の痛みを知った日のことを思い出していた幸村は、繰り返された言葉に再び同じ返事をしかけた。が、目を瞑り、しばし記憶を遡って、幼い頃の風景に辿りつく。
もう戻れない日々の面影を追うのは慰められるより辛いことのほうが多いだろうけれども。
「そう、してください」
幸村は己の返答を己で聴いて、うっすらと自嘲した。
対して隆景は純粋な笑みを浮かべている。
こんな一言が喜ばせたのだな、と解って自嘲さえ消える。
今どんな顔をしているのか誰かから教えて欲しかった。
隆景はよく、そんな顔をして、と言っては撫でたり身を寄せたり困った風に眉を下げたりするのだが、どういう表情であると指摘することはほとんどない。
結構な物が揃えられているし、求めた品はすぐ与えてくれるのに、申し出ても首を横に振られる物が幾らかあって、鏡はそのひとつだ。
考えついた理由は鏡を割って鋭い破片を手に入れられるのを危惧しているのと、鏡で見てはまた心が傷を負うほどに、よくない顔をしているということ。
いっそ隆景のようにいつも微笑んでいられれば良いのにと思う。
諦めきって、自分を放棄して、壊れた時にでもきっとそうなれるのだ。
果たして隆景はそんな有様でもあの笑みで安穏たる言葉を紡ぐだろうか。幸村が病むことはなるべく避けたい考えを持っているのは知っている。
同時に、もし病んでしまっても、それくらいで手放すならば今この時なんて無かったのも、理解している。
何もかも見えなくなって聴こえなくなって、応えなくなって解らなくなって、居るだけの存在になれれば、苦しみは終わる筈だ。
狂うのが希望だなんて既に自分はおかしくなっている。少しだけ、ほっとした。
「いけませんよ」
ふんわりとした声音が鼓膜を打つ。
魔が差すように僅かな安堵を抱いた幸村を隆景は惨いほど正確に見透かして正気へ引き戻す。
「たか、かげ殿・・・・」
「駄目、です。だめだ」
安易な語彙を短く使うやり方は幼子を相手にするもの。曖昧に逃げて目を逸らすことを許さず、解らせる為に。
「私は貴方を大切に想っています。慈しみ続けると決めてお連れしました。貴方がどうなろうとも。それはどうなっても構わないというのではありません。私は貴方を知り続けたいし、言葉を交わし、想い合いたいのです。病むか壊れるか、狂うかと、哀しいことを願うのは、やめなさい」
「貴方は私から槍も矜持も取り上げてしまった。過分な物を与えてくださるのに、望みは絶つ。胸の内で考えることさえ良い悪いと分けられて、いずれ・・・ええ、いずれ、隆景殿が求める私、に、なるのでしょう。それは私なのですか。狂った私と、どう違うのです。貴方と出会った頃とは既に私は違う者に、なってしまった」
瞳にじわりと熱が集まる。視界が明瞭さを欠いていく。
こんなに容易に涙が浮かぶようになって、意地を通すことも報いることも出来ずにいるのは、己と言うものを守る手立てを幸村が失った証だ。
握りしめた手に爪が喰い込む感触がする。途端に、これも取り上げられるのだろうと頭の片隅の冷えた部分が諦念を抱く。
皮膚を裂くことのないようごく短く切られる爪。きっとその時、隆景は手ずから整えた指先を掬いあげ、幸村に相応しいのはこういうものだと眼差しで教えるのだ。
此処に居る限り幸村は、隆景が許す範囲のことをし、隆景が与える物を享受して、丸くまるく削られ磨かれていく。
傷つくことも傷つけることもない無害な存在にした幸村を、ころり、ころりと手の平で愛おしもうとする隆景。
これだけ幸村を変える癖に、時を止めたかのように、彼ばかりは変わらずにいる予感がした。
生きた人間の生々しさを感じにくい温度が幸村の頬をひたりと包み込む。
隆景はよくよく触れて覚えた記憶の中の輪郭と、現実の触り心地に齟齬がないのを確かめながら口を開いた。透明な息遣いの中に仄かに陶然とした熱が混ざっている。
「苦しいのなら、縋ってください。痛むのなら、預けてください。私は貴方を受けとめられる時を待っているのですから」
ひとつ吐息を挟んだ間の後で、幸村は一瞬、意識が遠のきかけた。それくらい酷く怯えたのだ。
夜より深いどろりと粘つく暗闇が覆いかぶさってきて、窒息させられそうな気になる。言われた言葉にではない。
ひたと見据えてくる目から逃れるため伏せた視線が、見てしまったからだ。
隆景の袖を僅かに掴んでいる、己が指を。
思考、理性、感情、幸村の意思を振り切って動いてしまった幸村の一部。
待っていると言った隆景へ既にこの身は救いを求め、縋っている事実。次第に動悸が激しくなって嗚咽に似た荒い呼吸が繰り返される。
隆景は殊更ゆっくりと幸村の腕の先を――――掴まれた己が袖を見て、心底喜ばしげに言った。
「良い子ですね」



 

幸村が囚われた籠は明るく、美しい居場所として作られている。
風の匂いも花の香りも、空の色も、虫の音や鳥の声も此処には届く。
隆景と重ねていく月日は、変えられるものと変わらぬものの両方に苛まれ嘆く幸村を蝕みながら、ひたすら優しく過ぎるのだろう。
隆景にとって、終生共に在るということは、血の味を知らぬような平穏の中で慈しみ合う、その幸福を共に生きること。
植えられた桜を幸村は眺めた。まだ細く頼りない若木だが、季節になれば綺麗な花を咲かせ、幸村が求めた昔日の記憶を僅かに照らしてくれる筈だ。
折々に見上げた桜の色や匂いは思い出せるのに父や兄の声がもう、解らない。
春が待ち遠しいですね、という隆景の無邪気な声に小さく頷く。
「あれが咲く頃には、」
何を言いたいわけでもないのに無意識に言葉が出る。
「咲く頃には、それまでには、私は・・・」
幸村が思考の外で予感している、しかし口に出来ない未来を、隆景が代わりに引き継いでしまう。
「貴方は私と、寄り添い生きているでしょう。共に微笑みながら」
ぽた、と淡く耳を打つ音がした。湿った風が吹きつけて見る見るうちに空が陰り、他の音を攫う雨が降る。
天によってさえも閉じられた世界で、幸村は隆景へ笑いかけた。先のことはどうなろうとも、今はまだ自分は正気なのだと、示せるうちに伝えたくて。

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